J-Workout創設~伊佐拓哲〜
皆様こんにちは!
寒暖の差が激しい昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか?
私はばっちり花粉にやられています。笑
実は…受傷しリハビリを終えて病院を退院する時、
医者に
「君が一人で家の外から出るには10年はかかるだろう」
と言われました。
しかし、私は半分の時間の約5年で誰も予想もできなかったであろう、ADL区分での自立を成し遂げました。
約5年で初期状態車いすへのトランスもままならない状態で、寝たきりのベッドからの脱出、さらには車の運転
そして、一人暮らしに至り、公認会計士を目指す私にどの様な変化があったのか。
それはJ-Workoutがあり、努力を積み重ねた事で、大阪の親元を離れ一人東京のマンションで暮らすことが可能になったのだと思います。
今回はJ-Workoutの創設のお話しです。
今回は私がお世話になっているJ-WorkoutについてのJ-Workout株式会社代表取締役 伊佐拓哲さん(頚髄5~7を損傷)とJ-Workout大阪支社長 谷野雅紀さんにインタビューを行いました。
・どのように日本で初めての脊髄損傷者専門のトレーニングジムJ-Workout創設に至たったか?
・昔からいらっしゃるクライアントも知らないJ-Workout創設に至るまでの話。
・伊佐さん自身がやっておられる車いすスポーツのチェアスキーの魅力。
ついて紹介していきたいと思います。
余談ですが頚髄損傷でチェアスキーができるのはアメリカでもなく、EU諸国でもなく世界で唯一日本だけだそうです。
その記事はまた後日…
今回は私長谷川がJ-Workoutに通う前の話。J-Workout創設いたるまでの伊佐さん視点の記事です。
(J-Workout株式会社代表取締役 伊佐拓哲さん)
長谷川「J-Workout創設に至るまでのインタビューをさせてください。」
伊佐さん「J-Workoutの創設に至るまでの話ですね。わかりました。」
長谷川「まず、伊佐さんが受傷した原因についてお聞かせください。」
伊佐さん「2002年5月アスレチック競技参加中に受傷しました。」
長谷川「アスレチック競技中に受傷され、 J-Workout創設に至ったのは私の記憶では、2007年頃と聞いておりましたが、2002年5月~2007年の間にどのような事がありJ-Workout創設に至ったのでしょうか?」
伊佐さん「神奈川県総合リハビリテーションセンターで行われた脊髄損傷家族会による在宅でできるリハビリの講演会のため、来日していたアメリカの理学療法士が、民間で脊髄損傷に対して歩行をするためのトレーニングを行っている場所があるという話をしていました。」
伊佐さん「よく聞くとその施設は「Project Walk(プロジェクトウォーク)」といい、私の親友である渡辺淳の留学先であるサンディエゴに本社があったのです。運命を感じ、すぐにアポを取り実際にProject Walkにトレーニング行きました。」
(Project Walkでの渡辺さんと伊佐さんのトレーニングの写真)
伊佐さん「そこで日本で歩くことをあきらめ、行き場を失っている脊髄損傷者の為に、日本へProject Walkのような技術をもって帰りたい。
そのためにはProject Walkに渡辺淳が入社し、トレーナーになることが一番早いことだということになりました。」
伊佐さん「私も渡米しクライアントとしてトレーニングを受けながら何度かアメリカと日本を行き来しました。渡辺が普通より速いペースでトレーナー昇進を果たしたのを機に、1年間のビザを申請し本格的に向こうに行くことになりました。そのとき一緒に生活をすることになったのが隼平君という頚損の人と、現大阪代表の谷野でした。」
伊佐さん「最初は1年で帰れるとは思っていませんでしたが、あっという間に成長した渡辺は1年という時間で日本に帰って立ち上げることが許されました。そして2007年一緒に帰りアジア初のProject Walk公認会社ということでJ-Workout株式会社が誕生しました。」
(左からProject Walk時代の渡辺淳さん、次回の記事のキーマン神﨑 隼平さん、J-Workout大阪代表谷野雅紀さん)
※渡辺淳J-Workout Founderはアメリカ人以外の人間で初めて、入社を許され脊髄損傷回復スペシャリストIIの試験を合格したJ-Workoutの創設者です。
チェアスキーのインタビューがまだ残っておりますが、区切が良いので今回はこのあたりで…。
次回はほぼ同時期に渡米していたJ-Workout大阪代表 谷野雅紀さんへのインタビュー記事です。
乞うご期待!